私の時代は、小学校で道徳の時間があっただけで、中学高校と道徳や宗教の時間は無かった。
地方のある程度の進学校だったので、大学受験のための勉強と熱心な部活動をして中学高校と過ごした。
しかし、中学3年生あたりから、反抗期も来て保健室登校になり、毎日のように遅刻するようになっていった。
そして、生きる意味という答えの無い問題に迷い込んでしまう日々に突入するのだった。
自分の居場所もどこにも見つからなかった。
学校に行く気にもなれなかったし、勉強する気にもなれなかった。
そして、私は、高校1年生の時にカナダに2週間ホームステイすることになった。牧師の家だった。
その家庭は、子どもが5人いてとても貧しかったが、今までに見たことのない幸せいっぱいの家庭だった。
私の人生で幸せを意味するのは、今でも、その家庭のことだった。
日本にいて、お金がある人にも学歴がある人にも名誉がある人にも無い、心からの幸せのかたちがそこにはあった。
その家庭が心からの幸せにうつったのか、どうしても知りたくて、私は高校の卒業論文はキリスト教について調べた。
しかし、本を読んで調べても、近くの教会に行って牧師の話を聞いても、全く理解できなかった。おとぎ話のような馬鹿げた話に思えた。
そこから、13年の年月を経て、母となった私は、娘の幼稚園の行き渋りを経験することになる。
そして、別の幼稚園に転園を決め、娘自身が選んだのがキリスト教保育の幼稚園だった。
私は、結婚式もキリスト教は避けて神社で行い、幼稚園選びの際も、キリスト教の幼稚園は避けていた。
自分が育ってきた文化にキリスト教が存在していなかったからだ。
しかし、娘の選択により出会ったキリスト教保育の幼稚園で、私自身がキリスト教を学び、また、先生方に救われた。
先生方に出会い、思い出した。
あのカナダで出会った牧師と同じだ、と。
高校時代に本で勉強した時とは、全く違った。
いろんな経験をし、自分には解決できない悩みや迷いにぶつかり、また孤独だったからこそ、心に強く刺さったのだと思う。
幼稚園では、子供ではなく私が、たくさん泣いて、たくさん成長させてもらった。
娘が行き渋ってくれて、その幼稚園を選んでくれて感謝してる。
子どもたち3人をどうしてもその幼稚園に通わせたくて、その幼稚園の目と鼻の先に引っ越してしまったほどに、私はその幼稚園が大好きだ。
私の母としての成長をサポートしてくれて、本当に本当にありがとうございます。
子どもたちも幼少期にキリスト教保育の中で安心して過ごせたことが、成長と共に人格形成にあらわれ、親としては、ずっとキリスト教教育を受けさせたかった。
しかし、日本でキリスト教教育を受けさせようと思うと、お金がかかり難しい。
日本には、神道や仏教の文化があるのに、学校では宗教としては一切習わない。なぜだろう。
道徳はもちろん大事だと思うが、宗教とは違う。
道徳はモラルの教育だ。
宗教には神様がいる。
神さまというと、抵抗を感じる日本人がいるだろう。
私も以前はその中の一人だった。
親や先生を信じられなくった時、自分のことさえも信じられなくなった時、何もかも信じられなくなった時、何を頼りにして生きていったら良いか。
わずかでも光る道筋をたどりながら、人生を前に歩むことができる人もいる。
神さまを存在を感じて生きることができると、より安心して前に歩むことができる。
いつも見守っていてくださる存在を感じながら、生きることができるのは、それだけで幸せなことだと思う。
昔は、学校ではなく、おじいちゃんやおばあちゃんと過ごしながら、昔話、日本文化の話、戦争の時の話を聞きながら、道徳的なこと、宗教的なことを自然に学んでいったと思う。
今は核家族でもあるし、今のおじいちゃんおばあちゃんたちも日本の文化や宗教に対して知識も薄くなっていってるし、宗教的な話題はますますなくなっている。
こんなにも宗教を学ばない国はあるのだろうか。
ものすごい宗教の話を避ける国、日本。
世界中の宗教を学ぶことが、国際理解を深め合うことにもなるのだから、避ける時代では無い。積極的に学ぶ必要を感じる。
いじめや自殺、精神疾患を抑制するためにも、宗教教育にも目を向けてもらいたいと思う。
今、どんな辛く困難な環境にいたとしても、必ず、神さまはあなたを見守っていて下さってる、と信じれる宗教教育をしてほしい。
人と人との繋がりが減り、皆が孤独に感じてしまう世の中だからこそ、神さまの存在は救いになることだろう。
悩みがあったり、不安がある子どもたち、必ず神さまはあなたたちをいつも愛して下さっているから、あきらめず生きてって欲しい。
コメント